Column

2018年10月18日
賞状とマラソン大会。
〜7歳児の執念と悲劇〜

約半世紀を生きてきて、
金龍の縁の付いた賞状を
もらったのはたったの1度だけ。

それも40数年前。

そんな、おそらく
生涯最初で最後の賞状も
引越しを繰り返しているうちに
紛失したけど…。

そういえば卒業証書とかも、
どこにあるやら。

中学卒業までに家族単位での引越しを
5回もすると、思い出の品などは、
ほとんど紛失するよね。

こちらの思い入れとは別に、
親が勝手に処分したり。

実家のどこかに幾つかは
あるかもしれないけど、
とても探す気力も体力もない。

大切な物品や記憶は消えていっても
前回コラムで書いたように、
どうでもいいことを鮮明に覚えている
不思議な不思議な記憶の欠片。

今回は「ハナシブキ」より
鮮明に覚えている
記憶の一欠片をつまみ上げ、
「黒電話と青春」風ドラマ仕立てで。


タイトル:賞状とマラソン大会 〜7歳児の執念と悲劇〜
出演:私(小学校1年時)、覚えていない同級生たち

時は40数年前、
晩秋の日差しが降りそそぐ、
埼玉県大宮公園。

〇〇小学校マラソン大会の会場である。

1年生から6年生まで各学年
男女別にレースは行われる。
全12レース。
こんな書き方をすると
競馬や競艇みたいだけど、
今考えるとかなりの大イベントだ。
1学年200人以上いたわけだから、
校庭で開催するには無理があったのもうなずける。

この大会の各レース上位6人には
賞状が授与される。
もちろん金龍縁付きの立派な賞状。

私は何としてもこの賞状が欲しかった。

当時6年生だった姉は、
作文、絵画、工作、習字などの入選で、
いくつもの賞状をもらっていた。

毎日のように遊びに行っていた
同じ団地に住むお兄さんの家の玄関にも
このマラソン大会で得た賞状が
飾られてあった。

私は7歳児なりに、
勉学に関する努力がまったくできない
人間であることを自覚していた。

きっと生涯、賞状には縁がなく、
もらえる可能性があるとすれば
このマラソン大会しかないと
悟っていたのである。

自分の中に湧き上がる、
賞状に対するとてつもない執着と憧れ。

仮面ライダーベルトも
ウルトラマン人形も
ミニカーもフィンガー5の
レコードもいらない。

今、私が欲しいのはあの神々しい賞状。
喉から手が出るほど欲しい。
そんな心境だった。


こんな心境 ↓



ただ走るだけなら、
毎日、日が暮れるまで、
鼻水を拭いたシャツの袖が
ガビガビになるまで、
夕食時には疲れ果てて
ご飯を口にくわえたまま寝てしまうまで、
外を飛び回っていた俺様が
負けるわけがない。


こんな俺様 ↓



スタート直前。

マラソン大会と言っても
小学校1年だから距離はおそらく
1〜2km(だったと思う)。
約100人が一斉にスタートする。
勝敗の大勢はスタートで決まる。

すなわち賞状をかけたスタートだ。

マークする人物は2〜3人だった。
どちらかというと私は
スタミナよりスピード。
先行逃げ切りしかない。

それまで体育の授業などでも
100m以内なら誰にも
負けたことがなかったが、
長い距離になるとこの2〜3人に
何回か抜かれていた。
それでもスタートさえ失敗しなければ、
6位以内はまず間違いない。

ところが私は人生で初めて
「極度の緊張」なるものに襲われ、
腹痛を起こし、ナマ汗をかいていた。


こんな状態 ↓



なんとか腹痛は治まったものの
フワフワと体に力が入らない。
地に足が付いていないとはこのことだ。
集中力が切れる。そんな状態のまま
スタートの号砲が鳴った。

えっ?

完全にスタートが遅れた私は、
直後に数人と接触し激しく転倒。
そんな私の上と横をバタバタと
後続が駆け抜けていく。

立ち上がった時には最後尾。

こんな状況 ↓


ただの運動会なら、転んだ時点で、
わーわー泣いて諦めていただろう。

しかし、私の賞状への執着と憧れは
この程度で諦められるほど、
生ぬるいものではなかった。

私は猛烈な勢いで先頭を追った
「賞状、賞状」と念じながら走った。
ラン・ローラ・ランのように走った。
血まみれのヒザとヒジの痛みも忘れて走った。

こんな激走 ↓




しかし、


ゴールの数十メートル手前で、すでに
ゴールした人数が6人以上いることは
一目瞭然だった。


9位…。

最終順位を知った時、
猛烈に溢れ出る涙。
その日、床に着くまで泣いていた。

この涙の意味が、少なくともあと1年は
賞状を得られなかった無念さであったことは誰も知らない。

「数字をひっくり返せば6位だよ!」

そんな小学1年生にしては、
気の利いたクラスメイトの冗談も、
なんの慰めにもならなかった。


こんな冗談↓



翌年、見事5位に入り、
念願の賞状を手に入れた。

途中までぶっちぎりで
トップだったけど、
後半にガンガン抜かれて
辛うじてって感じだった。

その翌年にはマラソン大会のない
小学校に転校したため、
まさに、最後のチャンスを
モノにしたことになる。


ハナシブキよりマシだったかな。

ではでは。